和田寺の勘助地蔵
兵庫県篠山市今田町下小野原 


 同県の豊岡市に住むSさんから頂いた資料をそのまま掲載させて頂きました。
~六古窯の一つ丹波立杭焼で有名な篠山市今田町(こんだちょう)。下小野原(しもおのはら)の天台宗ニ老山和田寺(にろうさんわでんじ)のいぼとり地蔵は勘助地蔵と呼ばれる。
デカンショ節で知られる城下町篠山を東西に走る通称デカンショ街道・国道372号を篠山市街から西に向かい、国道176号との交差点の古市を過ぎて、不来坂8このさか)を超え、
住吉神社を右に見て古市から約2.5キロ、上小野原(かみおのはら)交差点を左折、県道292号線(下立杭柏原線)を兵庫県立美術館の方向に向かって約2キロ。

 四差路右手路傍に和田寺500mの標識がある。
この標識に従って西に進むと、左手に霊園を見ながら和田寺の鎌倉期創建の仁王門に到着、 和田寺は南北時代に和田寺と寺号を改称してから六百有余年となる歴史ある古刹。
目指す勘助地蔵は、標高246mにある寺事務所敷地の東南隅のお堂の中、中央に弘法大師像、鯖大師像などとともに存在する。

 勘助地蔵は石像、台石の高さ17cm、像の高さ54cm。
お堂の左に、勘助地蔵の由来と霊験の説明書きがあります。
「勘助地蔵の由来」に以下の記載がありました。

・・・江戸時代、徳川吉宗将軍の頃大飢饉あり。西日本一帯に「ウンカ」の被害
 甚だしく不作、餓死者族室、当時、三田に勘助という人あり。施錠を憂いて
 義賊となり衣食に苦しむ農民に金品を分け与えた。機敏な動作と俊足である
 こと評判となり後世伝えられているが、晩年足腰の病に冒され歩行不可能と
 なり床に付す日が続いたが、就寝中響きわたる地蔵の声あり「われは今浦山
 の土中に埋もれしままの地蔵なり。 直ちに掘り起こし祀れば汝の病を直さ
 ん」と夢告あり。勘助、人を介し裏山をたずね小野原地蔵谷にあった地蔵を
 発掘、盛大な法要を営み供養すると、たちまち足腰の病が癒える。勘助大い
 に喜び田楽をつくり奉納し地元の人にもふるまう。その後勘助は各地の寺社
 を参詣し浄財を喜捨し余生を幸せにおくった。その後この地蔵は明治末期頃
 迄地元の人々に「足腰の病を除いていただける地蔵様、疣(いぼ)をとって
 いただける地蔵様」として大いに信仰され縁日の二十四日には長蛇の列が続
 いたという。昭和になり和田寺に移し現在に至る。・・・ 

 お堂の中には勘助地蔵へのお願い事を記入するお札と一体に、祈願のことばを
記した用紙が用意されている。
 地蔵の前でその祈願のことばを唱え、お願いごとを記入したお札を指定の箱に
入れ、さらに自宅で朝晩最低七日間祈願して下さいと説明されている、~(2016年9月13日記)

上小野原交差点を左折し県道292号 南へ約2キロで四差路に和田寺の標識
天台宗二老山和田寺の仁王門 和田寺の御本堂
勘助地蔵の地蔵堂 中央の石像が勘助地蔵
勘助地蔵の拡大 勘助地蔵の由来の掲示


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