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東岸居士の墓碑・いぼ神様
名古屋市西区南堀越町1−8ー20 |
ネット検索中に名古屋市西区南堀越町にある東岸居士の墓碑がいぼ神様であることを見つけました。4月某日名古屋城にお花見に行くついでに訪問しました。JR名古屋駅で下車し名鉄東枇杷島駅で下車し北へ歩いて南堀越町に向かいました。南堀越町2丁目の東レ愛知工場が見えるあたりで散歩している方に尋ねても分からず、南堀越町1丁目でたまたまあった犬を連れている男の方と丁度反対方向から来た中年の女の方に尋ねたところ東岸居士の墓が庄内用水路にかかるふじた橋の近くにある東岸公民館のところにあることを教えて頂きました。
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庄内用水路にかかるふじた橋の欄干
桜の咲いているところが東岸広場 |
北側から見た沢山の幟が立つ東岸公民館
東岸居士の幟の後ろの左隅に居士のお社 |
東岸公民館の周りに東岸居士の幟が沢山立っていて公民館の東側に名古屋市教育委員会の説明の高札がありました。東岸公民館の北側に東岸居士墓碑のお社があり、お社の向かって左側に東岸居士の伝説が詳しく書かれていました。墓碑には薄く東岸居士の字がありました。公民館の西側には小さな神明のお社がありました。
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名古屋市教育委員会の東岸居士の説明 |
東岸居士の小さなお社 |
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格子越しに見た東岸居士の墓碑
には東岸居士の字がうすく見える |
同じ敷地内の神明のお社 |
名古屋市教育委員会の高札には
『東岸居士(〜1283)、名は玄壽、東山雲居寺の説教僧。出家もせず僧衣も着用せず妻帯のまま、羯鼓(かっこ)を打ち竹の編木(ささら)をすり念仏踊りをしながら、馬で諸国を説法して回った。
たまたま、当地・堀越に滞在した折、往生をとげた。村人は、その徳を敬い弔ったという。今も「いぼ神様」として人々の信仰を集めている。毎年八月十三日に盆供養が行われている。
「尾張志」等によれば、東岸の像が近くの宝琳寺にあったという。この墓碑は、以前、東レ(株)愛知工場の中にあったのを移したものである。』とありました。
東岸居士の居た京都の東山雲居寺(うんごじ)は今はなく、秀吉とねねのお寺で知られている高台寺(京都市東山区高台寺下河原町526)のところにあったそうです。
東岸居士が亡くなった1283年(弘安6年)は元寇の二度目の来襲の弘安の役(1281年)の2年後で、北条時宗が1284年に死去しています。東岸という名前が東岸公民館の他に東岸広場、東岸町、東岸寮として残っています。
公民館前の居士墓碑のお社の前の説明版によると東岸居士は自然居士(じねんこじ)のお弟子さんとのことで、謡曲にも作られた世に名高い隠者とのことです。謡曲には東岸居士、西岸居士、自然居士などがあり、ネットサーフィンをしていたらたまたま謡蹟めぐりというブログの中に謡曲から見た東岸居士のお話をみつけました。
(写真は2007年4月8日撮影)
東岸居士の墓碑へのアクセス→Google Map
JRにて
新幹線JR名古屋駅で下車、駅北の名鉄名古屋駅より名鉄本線に乗車し東枇杷島駅下車。西へ150mほど歩き左折して1kほど北上すると南堀越町2丁目に着く。東レ愛知工場が見えるあたりで右折しおて南西に500mほど歩くと庄内用水路に着く。用水路に沿ってちょっと北上するとふじた橋につく。東岸広場の左方向に東岸居士の幟が立つ東岸公民館が見える。
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