小笠原長清の墓・疣地蔵
山梨県北杜市明野町小笠原(長清禅寺)


ネット検索中に武家の礼法小笠原流の祖である小笠原長清の墓が疣地蔵であることを見つけました。4月6日に閑が出来たので長清のお墓を訪問しました。長清の墓は北杜市明野町小笠原の長清禅寺にありました。2004年11月1日に旧北巨摩郡明野村は須玉町、高根町、長坂町、白州町、大泉村、武川村と合併し北杜市になりました。

向かって右前方向から見た長清禅寺 本堂正面の長清禅寺の額
向かって右前方向から見た長清禅寺 本堂正面の長清禅寺の額


中央自動車道の韮崎ICを出て左折して県道27号線を1.5kmほど西行し韮崎東中前交差点で右折し国道141号に入ります。2km弱ほど北上し駒井交差点で右折して県道23号線を2kmほど走り小笠原の原郵便簡易局を過ぎた交差点で左折して細い道を中央自動車道方向に走ると長清禅寺に着きます。長清禅寺は無住で本堂の向かって左側にお目当ての小笠原長清の墓がありました。

本堂向かって左奥にある小笠原長清のお墓 正面から見た小笠原長清のお墓
本堂左奥にある小笠原長清のお墓 正面から見た小笠原長清のお墓


小笠原長清の墓の横には平成15年3月28日に書かれた明野村教育委員会の明野村指定文化財昭和47年3月1日指定「伝小笠原長清供養塔」の説明板がありました。長清寺境内にある五輪塔に2基は、平安時代末から鎌倉時代初頭の甲斐源氏の雄、小笠原長清の供養塔と伝えら、小笠原長清は応保2年(1162)3月5日、加賀美遠光の二男に生まれました。13歳で元服し兄秋山光朝とともに平知盛に仕えました。治承4年(1180)、源頼朝が平家討伐に挙兵すると甲斐国に帰国し参陣し、以後頼朝の信任を得て安房国守護に任ぜられ小笠原氏繁栄の礎を築き、仁治3年(1242)7月15日に京都東山の館で81歳で没したとのことです。

斜め右後方から見た小笠原長清のお墓 斜め左後方から見た小笠原長清のお墓
斜め右後方から見た小笠原長清のお墓 斜め左後方から見た小笠原長清のお墓


墓といわれる五輪塔は二基あって向かって左側の小型の五輪塔はお寺の西方150mほどの水田中にあったもので「疣地蔵」と通称されていたものです。30年ほど前に寺中に移されたものとのことです。有名人の在原業平の供養塔が疣神様であったり小野小町の墓がいぼ神様であったりしますが、有名人の小笠原氏のお墓が疣地蔵であることも同じようなケースと思われます。(2008年4月10日記)

                                (写真は2008年4月6日に撮影)

長清禅寺へのアクセス
Google Map

参考サイト

北杜市ホームページ

ブログいぼとり神様・仏様 長清禅寺の写真があります。

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