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恵母地蔵(えもじぞう)
神奈川県藤沢市高倉(七ツ木市民の家入口信号機) |
ネット検索中に藤沢市高倉にある恵母(えも)地蔵がイボ神さまといわれていたことを知りました。ネットに掲載の綿貫幾治氏書の『大山街道繁昌記』によると当時綿貫家の屋敷の北西(乾の方)に立っていたもので、綿貫家の乾守りとして信仰されていたものだそうです。明治40年頃にはイボ神様と言われていて、著者の綿貫氏もイボ地蔵として石を積んだとの記載がありました。
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七ツ木市民の家信号機手前に地蔵(南方から) |
七ツ木市民の家信号機後方に地蔵(北方から) |
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南側から眺めた恵母地蔵 |
北側から眺めた恵母地蔵 |
東名高速道路の厚木ICを出て左折して、国道129号線を1.5kmほど南下した戸田交差点で左折して県道22号線を東へ9kmほどの国道467号線の高倉中入口交差点を北東に700mほどの七ツ木市民の家入り口信号機の手前の道路西沿いに恵母地蔵がありました。地蔵の手前に欠けた観音像、向って左側には藤沢青年会議所が提供した恵母地蔵の説明板があり、地蔵と観音の前には綺麗な花が供えられていました。
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正面から眺めた恵母地蔵と説明板 |
後面から眺めた恵母地蔵 |
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地蔵と説明板の間に欠けた観音の石像 |
藤沢青年会議所の恵母地蔵の説明板 |
恵母地蔵の説明板によると〜明和四、五年(1767年)頃村は不作で、江戸にも飢きんがおそい餓死するものが多く、のがれてくる人が続きました。ある朝お百姓が、赤ん坊の泣き声がするので裏道に出てみると母親の乳房をまさぐりながら泣いていました。しかし母親はすでに息耐えていました。江戸からのがれて来たに違いない母の母性愛を村人はあわれにおもい、お地蔵さまを造り、恵母地蔵と名付けました。〜とありましたがいぼ地蔵の説明は見られません。(2010年8月8日記)
藤沢市のホームページ
長後の恵母地蔵の由来
ブログ「いぼとり神様・仏様」
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